Human Report

人間らしさを追求するブログです

物語を紡ぐおとなの掟

学びは楽しくなきゃ。
学びは今、この時。

学びと成長はおなじこと。
困難に立ち向かうとき、成長の音が聞こえる。

最初はひとりでも 心配ない。
いつも誰かを気にしてる。
びびっと来たら近づこうと狙ってる。
立ち向かうのが好きだから。
成長したいって願う自分がそこにいる。

ひとつだけ、お願い。
どうしても、おとなにそばにいて欲しい。
なぜだか、力が湧いてくるんだ。

 (☆ワクワク起源の物語☆前夜)

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 先人から実感として学ぶつつある
「(寄り添う)おとなの掟」5カ条、書いてみます

おきて① ひとりのこどもを決める

自分が寄り添うこどもをひとり、決める。
じっくり寄り添うには、決断が必要だ。これは、他の子から目を離す時間が増えることを意味するが、その心もとなさに屈しない覚悟を持たなければならない。と同時に、「継続」して寄り添う時間的余裕が、この決断から不安を取り除くのも事実だろう。

「覚悟」や「決断」といったちょっと大げさともとれる言葉を使うのは、保育の場というよりも一日限りのイベントの中で「物語」を紡げるかどうか、挑戦への気持ちが強いからだ。

おきて② ワクワクを起源を死守する

ワクワク起源を死守することは、おとな自身の自分との闘いである。日本人は(といってよいと思うが)、小学校以来、テストの点数で「学び」の成果を評価されつづけてきた。それは、自分が学びたいと願うことではなく、おとなが「学ぶべき」と決めた教科に対するテスト。学びを引き出す「興味・関心」は、いつしか「受験・就職」というゴールを見据えることで、忘れ去られることになっていった。

そんなおとなが、いかにこどものワクワクに心を寄せ、関心に関心を寄せるか、そう簡単でないことは、容易に想像できる。

カギを握るのは、なんとしても「こども目線」で居つづけられるかどうか、その強い意識と、余裕ある時間の確保である。

おきて③ こどもから離れない

距離も、心も、だ。
物語は、こどもの心が動いたときに、始まる。
いつ、どんなときに動くかはもちろん、わからない。しかし、予兆をつかむことはできる。そのためには、こども同士の関わり合いに、おとなも仲間として関わり、ともに遊び、遊びを広げ、遊び込むことが、非常に大切である。

そのことにより、「行き当たりばったり」ではない、ましてや望むゴールへ誘導するのでもない、「こども目線の物語」が生き生きと紡がれることになる。

 おきて④ 物語が生まれる軌跡をイメージする

1.興味・関心
2.熱中
3.チャレンジ、困難に立ち向かう
4.コミュニケーションが生まれる
5.人を思いやる、教える態度が生まれる

この順番をイメージしておくと、物語を紡ぎやすい心の余裕が生まれる。

おきて⑤ 叱らない、褒めない、応答する

ゴールはない。
物語が紡がれるだけである。
人との関わり合いこそが、学びそのものであり、「学び」とは困難なことや不確かなことに果敢に立ち向かうことである。

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こどもが大好きな理由

言葉にできる理由もたくさんあるけれど、
ならないものもたくさんあることも、
こどもが大好きな大きな理由です。

何かを好きでいられることほど、
自分の存在をはっきりくっきりさせてくれて、
こんなに幸せなことはないんじゃないかということを、
こどもに教えられてきた気がします。

 

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こどもが大好きな理由は、実ははっきりこれだ!と言えるものはありません。
ただ、余計なものをそぎ落として、自分にはこれだ!と自信もって言えることは、「こどもが好き」ということであり、何かに夢中になる姿、困難を乗り越えようとする姿に、「成長をサポート(この言葉あまり好きではないですが)したい!」と強く思うようになっていきました。いつもこどもとともに過ごせる仕事が、そういう思いにさせてくれたことは明らかです。

成長をサポートしたい、ととくに感じるのは、こどもが自分の気持ちをまっすぐに表現する姿と対峙する、まさにその瞬間です。真剣勝負を挑むかのような、それでいてあどけない表情に、「今」を生きる迫力と可能性を強烈に感じる瞬間です。

こどもは、人は学びつづけることができるという可能性を、つねに示してくれる存在です。人はいくつになっても学べる、成長できる存在です。生きることと、学び続けることは同義語ではないかと、こどもの姿にこそ問いかけられるような気がします。それをいつも心に留めおき、人としてどうあるべきかを考えさせてくれるこどもが好きという気持ちは、尊敬にも似た気持ちかもしれません。

「意味ある行動」の中に、物語がある

今まで(半年くらい前まで)は、こどもの言動を切り取った「(目に見える)場面」や「(楽しそうな)光景」に未来への可能性を見出していました。しかし、あるとき、それはもしかすると、私が見たい場面を見たいように見ているにすぎないのではないかと思ったのです。

こどもの成長に手ごたえを感じられる『仕事』がしたいと考えるようになった私は、その方法を模索していました。そんなとき出会ったのが、〈学びの物語〉という本でした。
※ここでいう『仕事』とは、サービスとお金の交換で成り立つものというよりは、“自分の役割で貢献する”という意味での『仕事』。

ひとが学び続ける可能性の証は、連続した場面が描く「ストーリー」にあると気付かされました。場面を切り取り望むゴールに誘導するのがおとなの「エゴ」だとすれば、「ストーリー」は、こども自身が見出す「意味ある行動」そのものです。そのストーリーを見ることは、学ぶ意味を見ることであり、生きる意味を見ることであり、ひとの可能性に希望を抱くことです。

こどもは、おとなが望むゴール目指して生きるのではなく、「意味ある行動」において学びつづける存在です。そう気付かせてくれたのが、〈学びの物語〉でした。そして、「意味ある行動」を物語として紡ぎ、こどもに「自信」という「成長にとって最高の武器」をともに磨きあげられるおとなでありたいと強く願うようになりました。

こう考えるようになり、はっとわが身を振り返る経験がありました。

「何してるの~?」
と聞くと、びっくりして遊びが止まるこども。

「手伝おうか~?」
と突如に仲間に入ろうとする私を拒否するこども。

今思えば、どちらも熱中していたことを不意に横取りされたような気持にさせてしまったのではないかと思っています。時間が気になったり、遊びの広がりや工夫にばかり神経を使うと、こどもが紡いできた物語を楽しむ余裕がなくなってしまいます。必要なのは、「余裕」だと今は、感じています。

物語は、語られてこそ意味がある

実際には、ひとりのこどもをつきっきりで見ていることは無理です。
しかし、複数のおとなが見ることで、ひとりのこどもに目が行きとどくだけではなく、ひとりのこどもの「物語」から、複数の可能性を見出すことができるようになります。
大事なのは、物語をおとな(現場教育者と保護者)で共有し合うこと、そしてこどもが掴みかける成長のチャンスを、みなで後押しする手助けをすることではないかと、思います。

 イベント(行事)と物語の違い

あらかじめやることが決められているのがイベント(行事)だとすれば、「物語」は、やることが決まっていません。誤解を恐れずにいうならば、ここに大きな違いがあります。自分の興味とイベントの内容が合致すれば、そこは期待以上の結果(成果)が生まれる場となります。活気あるイベントの多くは、そんな場であることでしょう。

一方「物語」は、何をするかはこどもにゆだねられています。こどもの「興味・関心」こそ、学ぶ続ける心が育つ大きな出発点(起源)であると考えるからです。(イベントがそうでないと言いたいわけではありません)。しかし、だからこそ、「環境」がとても大事です。「舞台」といってもよいかもしれません。森が嫌い、虫が嫌いなこどもが「森」という舞台につれてこられても、そこにいきなり「興味・関心」は湧かないでしょう。「舞台」を準備するのは、おとなの大事な役目です。


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自分の感覚を信じてみる

先日、保険会社を訪れた。
募集企画にかける保険の相談だ。
相談しながら、頭に浮かぶ一文のことを考えていた。

 

『野外での活動は、安全に十分注意して行いますが、小さな怪我をする場合がありますこと、ご理解の上ご参加いただきますようお願いします。』


自然学校で当たり前のように使われてきたこの一文に強烈な違和感を覚えつつあった。これが参加者に受け入れられる限り、おとなとこどもは双方“見張り合う”立場を抜け出せない。活動するのはこどもだが、主語はおとなのこの一文。こどもは無謀な挑戦を自らつかみにいく勇者であるにも拘わらず、この文にはその勇気を委縮させてしまう存在としてのおとなが際立っているように感じる。


PL法が適用された当時、巷の商品には注意を喚起する文章が登場した。一見親切にもとれる注意の背景には、いつともわからない攻撃に対する恐怖心がある。恐怖心が蔓延する世の中には過剰な注意喚起が溢れかえり、やがてそれが当然のこととして社会に浸透し、懐疑的な視線を送り合う冷たい社会が地球を包む。はたして大げさだろうか?法律をつくるのは国会ではなく人間の意識だ。「もしも」のことを恐れている限り、「今」を勇敢に生きることはできない。いざというときの窮地を救うのは、お金でも法律でもなく、それをくぐり抜けた「どうにかなるさ」という楽観意識だ。

もし書くとすれば、こんな感じがいいと思い直している。
『怪我もケンカも、経験すべてがこどもに必要な学びです。その機会をひとつとして奪わぬよう、寛大に見守っていただきますようお願いします。』


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自信とは、「自分を信じる」ことである

賞味期限を気にせず、なめてみて(あるいは、嗅いでみて)確かめる人が私の周りには結構いる。私もそうだ。おかげで、もったいないことしたー!ということが少なくてすむ(笑)

テレビの天気予報で、「明日は今日より一枚多く着るとよいでしょう。」とか、「マフラーがあるとよいかもしれません。」などのコメントに、余計なお世話だ!と叫びたくなる。自分の体を守るのは、自分の感覚でしかないのに。

寒い冬、半袖で走り回るこどもを見ると、驚くというよりどこか安心する。「冬は寒い」という常識ではなく、「動くと暑い」という体感覚。この感覚に生きる姿に、安心するのかもしれない。

普段意識せずとも、“誰かに言われたこと”よりも、“自分”を信じて動くことは誰にでもある。自信とは、その積み重ねでしかたくわえることはできないものなのだと思う。

こどもは「守られたい」のではなく「愛されたい」と思っている

こどもがいない私は、こどもの立場でしか考えられないが、こどもは親に「守られたい」のではなく「愛されたい」存在なのだと思う。「守る」にはその動きを封じ込め、「愛する」には動きを解き放つ力がある。私自身、「あなたを守るためよ」と言われるより「やりたいようにやってごらん」と言われつづけてきた。親のそばにいようと離れていようと、日本にいようと海外にいようと、反対されることなく私を信じて見守ってくれた。そこにある愛は、いまでも日を追うごとに大きく感じられる。

「守る」と「愛する」が同じことだと勘違いすると、こどもにも親にも悲劇が起こるのではないかと思う。

自然は、自分を信じる力を宿してくれる

自然は、助けてくれない。
自然は、足元の凸凹。
自然は、水の冷たさと太陽の温もり。
自然は、枝葉のざわつく音と、音のない空間。
自然は、笹やぶと竹やぶ。
自然は、空に伸びる木と横に伸びる枝。
自然は、分厚い雪と雪に覆われた山肌。
自然は、獣の生きる場所。

雪を踏みぬくことなく歩いたり、枯れ枝が落ちてこなかったり、獣に襲われなかったり、雷に打たれなかったり。それはすべて、ラッキーなだけであって自然がそうしてくれたわけではない。自然は、そんなに気が利かない(笑)。

自然に身をおこうとするとき、信じられるのは自分しかいない。

凸凹に手すりはなく、笹やぶに道はない。
木に梯子はなく、雪に階段はない。
獣の気配は感じても、人の気配は消せない。

自分の感覚を研ぎ澄ませ、心に耳を澄ませる。
木に登り風を感じ、獣の気配に足音をたどる。
雪の斜面を転げ回り、冷えた体を太陽で温める。

「変化に富む」というより「変化しか存在しない」自然の中で、自分も自然だと感じる。体で感じる。その証拠に、遊びに法則などなく、体動くままにどんどん進化し変化しつづける。関わり合いの中で気持ちが揺れ動くとき、自分と他人の違いに気づき、自分は自分にしかコントロールできず、コントロールしないのもまた自分だと気づく。

自分の人生を生きる上で必要なことを、自然は教えてくれる。
こどもには、学びとる力が備わっている。
おとなのエゴで封じ込めてはいけない。

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